昭和四十九年四月七日   朝の御理解


X御理解第二十二節 
「天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心を出さねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ」 


 昨夜の御祈念の後に、熊谷さんが、今日夕刊を見せて頂いとりましたら、久留米、佐賀の金光教の教会のご信者さん方が、十日の御本部参拝なさらなければならんのに、ストですから乗り物が麻痺してしまうから、大変恐慌を感じておる。困っておる。という意味のことが大きな見出しで出ておったということでございます。ですからもうほとんどの方が代表で参られるらしいです。
 ここでも丁度二三日前、一昨日でしたか、若先生が「どんなにしても半分しか参られません。自動車も十台余りしかありませんし、四十人ですから半分ですから、半分しか参られません、八十人参るようにしてましたから」〔と言うので〕、「それならあとの四十名はどげんするか。神様にちゃんとお願いしてあることだから、八十人みながお参りできるようにお願いしてあるのだからなかごとがあるもんか」と、私と若先生と問答しておると、丁度日田から坂本さんという方が御理解を頂かれておりました。その話が御理解を聞きながら耳に入ったんでしょう。「今何か自動車のお話がありよりますが、御本部参拝か何かの自動車のことですか」と言う。「ええそうなんですよ」と言うたら、「私の方に大きな自家用車も一台ありますし、バスも二台持っとりますから、それをどうぞお使い下さい」「立ち所に四十名乗られるじゃないか」とお話ししたことでした。それに久富組のバス、マイクロバスですね。お借りすることになって、まあゆっくり却って、昨日秋永先生達が、自動車一台参っとりますから、八十名のが、却って八十五、六名ぐらいお参りが出来るようになった。しかも毎日幹部の方達が、企画の時から、昨日また企画の方達が、最後の十二時ごろまで残って、自動車の振り分けとか、また自動車運転手が、どうしても二人あてぐらいはいると言うので、色々心配して頂いて、誰がどの車に乗るということまで割り当てが出来ておるところでございました。
 佐賀熊本だけぐらいじゃございますまい。この十日にお参りしようということに割り当てられとった教会は、大変困ってもあるだろうし、そういうことになったんですから、神様もご承知だから、代表だけでお許し頂けるというような、安易な考え方では、おかげの受けられない基です。
 今日の最後に、「ままよと言う心を出さなければ、十分のお徳は受けられない」とおっしゃるその前提です。「ままよとは死んでもままよ」とおっしゃるから、死んでもままとはね、どうとかなろうというような安易なものじゃないです。成るようにしかならんがというようなものではない。
 このままよと言う心というのは、死んでもままよということですけれども、例えば、死んでも生きてもおかげだと判る程しの信心とか信念が出来てからでなければ、出来ることじゃありません。ただ今申しますように、例えば一念を燃やすという、どうでも、たとえ乗り物がなければ歩いてでも参るというような、例えば私の信者時代、親先生の御供をして毎月月参りをさせてもろうた。あの時分の御本部参拝はとてもひどいものでしたよね。御本部参拝もう窓から乗らなきゃならない。御本部行くまで立ちずくめ、立錐の余地もない、それに大きなヤミ袋を持って乗り込んでくるので、本当に大変修行させてもらわねばお参りできなかった中に、やはり毎月お参りさせてもらった。どんなことであっても旅費がないなら片道で参った。というように私共はそこんところを繰り返し繰り返し、どうでもというものを通って行くうちに、なんと神様は間違いないなと、言っても片道には片道の汽車賃は向こうの方で待っとる。全然今度はお参りが出来ない。旅費が全然ないといえば、それでもやっぱり駅までぐらいは行ってみる。そこにちゃんと旅費が待っとるというようなです。
 例えば御本部参拝なら御本部参拝のことでも、都合がよかりゃ参りましょうぐらいな、今度は大分断った人もあるんです。そんな訳で、だから断った人があるけれども、そんなら私共参らせて頂きたいと言う人が出来たから、却って多くなったわけです。
 特に殊神様ごとであったらです。どんなに私は無理をしても良いと思うです。このことが神様が喜んで下さることだったら、どんなにがむしゃらに押して、私はお願いしても神様は聞いて下さる。成程神様が喜んで下さることならば、こういうおかげが受けられるんだと、そこから確信が段々出来てくる。そりゃこんなような情勢下にある時ですから、なら、合楽から十人なら十人の代表が参りゃ、それで言うなら言い訳はつく、けど神様には言い訳は出来ん。八十名申し込んであるということは、神様に八十名お願いしてあるのだから、八十名はどうでもお参りするぞと言うと、立ち所にです。言うならば私の願いというものは神様が聞き届けて下さる。そういうおかげがですよ。なら世界中の氏子に与えてある、授けてあるんだということです。
 昨日丁度午後四時の奉仕を終わろうと時でした。日田の綾部さんが、長野さんという大変大きな事業をなさっておられます方夫婦をお導きして参って見えられました。もうこの頃から、何もかも置いて、もの取るようにおかげを頂いた。子供の大学受験のこともお願いに見えとりましたが、おかげて希望校に通った。それで今日はお礼参りと言うて、お礼参りに見えましたけど、息子がお礼参りに来ると言いよりましたけど、都合でお参りが出来ん。「もうそのくらいのことなら却ってお礼参りせんで良い」と私は申しました。そうするとね、何とはなしに心にひっかかっとる。お礼参りせにゃいかん。お礼参りせにゃいかんと、一遍お礼参りするともうそれで済んだと思うておる。さあ入学はしたけれども、及第はしたけれども、あとがおかげが受けられんことではいけんから、長野さんといいますが、「後が大事なことじゃから、後のことば、あなたは時々参って来て私の話を聞いて下さるから判るでしょうから、後を大事にせにゃあいけませんよ」と言うてお話したことでした。この頃事業の方もたくさん手を広げておられるけれども、不如意なことになった。
 それは私は申しませんでしたけど、見えたら八の字を『ハ』と頂いた。短い点のような八の字です。今までは広がりに広がったのが、段々短こうなってきた。点々とこう頂いた。まあだけど八の字は八の字だ。けどこのまま放っておくとすってんてんになる。点が二つじゃけん。まあそのことは色々と話させて頂いたことでしたけど、丁度私があるお坊さんの俳句のことを頂いておったから、そこんところをね、私が頂いたこととそのことを聞いて頂いたんですけど、[涅槃仏、静かに御手のありどころ 涅槃像、バナナが上げてありにけり]インドの方へ巡拝された時の句です。だから私はそのことについて、涅槃ということについて思わしてもらいよったら、『おかげの泉は極楽行きの話ばかりなり』と頂きました。おかげの泉ですね。毎月ここから私のお話の一日分が、ご本になっているです。言うなら、毎日毎日の私のこの御理解というのはね、おかげを受けるということの本当のおかげ、それはこの世で自分の心の中に極楽を開かしてもらう。しかも、あの世にも持って行くという、言わばおかげの泉という、ここの御理解を頂いておる。極楽行きの話ばっかりを頂いておるのに、ただ目先目先のことばっかり言うておる。
 言うなら、長野さんに申しました。なかなか運勢の強い方ですから、あなたはおかげを頂くということにおいては、けれども、例えばこれは悪いことしたっちゃ、この一日二日の御理解を聞いて頂いた。例えば泥棒をしておってでも、お願いをするとこの神様はおかげを下さる程しに、大きな神様だ。願うからおかげは下さる。けれどもそれでは力は受けられない。徳は受けられない。だから、悪いことしながらおかげを頂くけんと言うて、それに甘んじておるとね、今日は私、そのことに関連したことでしょうけれども、丁度昔のお芝居の中に、直次郎という悪人がおります。なかなか色男、その芝居があります。『その人のような格好で、頬冠りしながら、ちょっと尻を端折って、そして何か悪いことしようと思うて、さなりを聞きよる。障子の向こうで、そしたら次は頬冠りをポンと取って、次には持っておる傘をポンと捨てて、障子開けて中に這入って、悪いことしよるな』と言う感じの所を頂いた。
 とにかくね、初めの間はね、こっそりと頬冠りで顔隠してから、悪いことをしよるわけですこっそりと。ところが次にはね、悪いことしよるのを段々馴れてきて、悪いことしよると思わんごとなってから、頬冠り取るごとなった。そうするとです。もういよいよ今度は傘の方まで捨てるようになってくる。これはそういうここ一両日の御理解の中から、聞いて頂いたわけでしたけれども、ただおかげおかげで終始しておることは、改まらなくったって、研かなくったって、御取次頂いてお願いをするとおかげ頂くから、それに便乗してしまう。それが段々横着になってくる。お願いをしたからには一ちょ一生懸命参ってお願いしようと、それでもおかげ頂くけんで、今度はもうお願いした時だけでよか。お願いの時だけ参りゃおかげ頂くというように、段々人間というものは、そういう楽な方へ楽な方へと行ったり、悪の方へ悪の方へ行くことがもう、もう悪を悪と感じんようになってくる。そしたらおしまいだと言う意味だと思うです。
 私共はいつもそこんところにブレーキを掛けときませんとです。人間というものは必ず、楽な方へ楽な方へと行きたがる。言うなら、合楽の御理解は、極楽行きばかりの話なのですから、その極楽行きのために、自分の心が安らぐ、自分の心がいよいよ喜びに満ちてくる。そのことのために御理解を頂かにゃいけんのです。だから頂いたら行じなければおられんのです。自分の心が極楽行きをすることのために頂くものです。
 例えば、この話をしている時に、丁度眼鏡を出しとりましたからこの眼鏡なんかやっぱりそうです。「私眼鏡をおかげ頂きたい」と高橋さんが言われる。「だからデパートへ行って見て下さい」とこう言われる。まあ大体四、五万の見当で行ったところが、行ったとっかかりに良いのがあったから、「これは良いな」と言ったところが、これは二万円と書いてある。「これなら丁度良かばい」ちゅうてから、「それは良かです」ところがそれは、〇が一ちょ多かったけん二十万円じゃった。いかな私もちょっと躊躇した。「これはまたこの次にしよう」と言うて帰ってきて、それから一両日後に、竹内先生が見えて、「この頃眼鏡を買いに行ってこんなに可笑しい話があったんですよ」と言うて話したら、「そのべっ甲の頂いたばっかりのがありますから、レンズだけ替えて頂けば使えるかも判りません」と、「だから一両日待って下さい」と言う訳で来たのがこの眼鏡です。はめた見たところがレンズを替える段じゃなか。丁度そのまま私に丁度良いレンズそのままであった。立ちどころという訳じゃないけれど、立ちどころと同じようなおかげというものはちゃんとあるんだと、誰でもそのおかげが受けられるのだと、私が本当に欲しいと思うもの、しかも神様がそれを認めて下さり、それをそれが必要なものであるとするならば、これはです。眼鏡とかバスだけのことではない。どういうことでも、何でも、その通りのおかげが受けられる程しのおかげを頂いて行くということはです。
 私は自分の心がただおかげのためでなくて、極楽行きのためにお参りし、極楽行きのために御理解を拝聴する、ということになって来なければ、そういう信心を進めて行きよってもです。「まさか」と言うならば、それこそハッとするようなこともあるけれども、いわゆる積み重ねて来ている神様の間違いのなさというものが、チャンと心の中に頂いとるからです。ままよと言う心が出るのです。だから、そのままよと言うのはです。どうとかなろうとか、成るごとしかならんといったような安易なものではなくてです。それこそ死んでもままよと、死んでも神様のおかげと頂かれると、信じておかなければそういうものは生まれてこない。ままよという度胸が出てこない。そこに「十分の徳を受けようと思えば」と言う。だから初めからそれは出来るはずはない。それこそ、信心は一段一段なのである。御本部参拝なら御本部参拝、いよいよこれが神様が喜んで下さる。また殊に木真っ取りますから、私共が年に何回か御本部参拝させてもらうということは、だから、行かれたら行こう。汽車がその日は不通じゃけん、神様ご承知じゃけん、行こうと思いよったばってん、行かんじゃったというような、そういう程度では、結局そういう程度のおかげしか受けられないということです。そういう時です私は、いいえ八十名神様にお願いしてあるけん、八十名余りお参りするぞと、自動車はおかげ頂く。まちっとあちこちに話をして見れと、そういう私は行き方に、神様に、ははあ神様が喜んで下さることはこんなに間違いなくおかげを頂くことが判る。
 だから、すべてのことが、神様が喜んで下さる心の使い方、心の状態であるならば、すべてのことがおかげになることが判るでしょう。それを私は確信づけて行くことだと思う。神様の間違いのないのに恐れ入るということ、そういう信心が出来ておらなければです。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよの心を出さねばおかげは受けられん。ままよとは死んでもままよのことぞ言うような心は、そう簡単には出るものじゃないけれども、そういう確信というものを積み上げて行くから、、いよいよの時にはどっこいとそれが受けられるのである。いわゆるままよと言う心で、潔い心で受けられるのである。そういう時に後で考えてみて、あの時に徳を受けられなんだなということが、おかげの世界というものが広がってくる。そこから私は、日々が安らいだ状態と言うか、言うならば、この世で極楽という、心の状態、それに伴うて来るところの、人間の言うならば幸せへの条件、極楽への条件というものは、一つ一つ伴うて来るのです。
 ここではね、極楽行きのそういう心の状態が開けてくる話ばっかりなんです、実を言うたら。だからそれを頂くばっかりに、皆さんが合楽通いをしなければ、言わばずれてくる。ただおかげ頂かんならんけん参りよるとであっては、成程そうでもあるけれど、それよりも、一ちょ根本の所を頂いてのそれでなければいけない。神様は平等におかげを授けて下さるけど、受け物が悪ければおかげが漏るとおっしゃる。そのおかげというのは、神様を信じて疑わない、そういう心のことだと私は思います。それを初めから信じなさいと言うて信じられるものではないけれども、まず神様に喜んで頂くことを以て、試す。テストして行く。自分の我情我欲のことばっかりはそれこそ先日の清さんの話じゃないけれども、親先生のその念力の偉大なことに驚くけれども、いかに念力が私が強いと言うてもです。ただ針金ばポーンと投げて、飛行機になれとか、スプーンが曲がれとか言うことは、私はしもしません。出来るかどうかも判りませんけれども、そういう言わば信心がです。神様を遊びごとに使うようなことには使わない。幸せになることのためならばです。即座におかげの頂ける私の言うならば念力というものを行使させてもらう。祈っても願ってもおかげにならんなら、それはまあだ頂かん方が良いから、おかげにならんのだということなんだ。これは間違いないのだ。
 言うならば、お互いの願いがです。言うなら、子供の七文か八文の足を持っておるものがです。十文の足袋を下さいと言う願いだから、それがおかげになるはずがないでしょう。そこで十文の足袋が欲しいならば、十文の足に大きくなるまでは下さらないということであって、絶対どうでもということであったならば、絶対におかげが立ち所に頂けるんだと、それを信ずること。それが判ってくるということを、それにはただ自分の我情我欲でなくて、神様の願いと思われるような、願いのことを願ってみることなんだ。
 私共が御本部へお礼参拝さしてもらうということは、私共の願いであると同時に神様の願いなんだ。だから御本部参拝はどうでもと願えば、どうでもと願えば、旅費から体のことから、万事にお繰り合わせ頂けるのである。そして、ああ御本部参拝のことならこげん言うこと聞いて下さる。さあ御大祭が近付きよるけん、御大祭の、おかげ頂いたならお供えしようということでなくて、もう決めてかからにゃ。成程神様が御大祭に思い切ったお供えの一つでもできると言ったような、ことを喜んで下さる証拠に、こんな素晴らしいおかげを頂くということにんなるのだ。だから神様が喜んでくださることなら、こんなに言うことを聞いて下さるのだから、私共の願いのすべてがです。神様の機感にかなった願いになってくれば、一切が聞き届けられることになるでしょう。そこから確信というものは生まれてくるのです。
 そういう意味で、五つの願いの根本精神が判って願うということは、絶対聞いて下さる。体の丈夫を願う、風邪をひいたとはおかしゅうて言われん。それは願いよらん証拠と最近思うのです。何処にお粗末ご無礼があるか分からんけれども、私とてもこの願いが立てられて、おかげで一回も風邪をひきませんけれども、いつそれは風邪をひくか判りませんよ。今夜ひくか分からんです。時には、なら自分の精神状態の方が間違うとるというた行き方なんです。私が体の丈夫であるということは、神様も助かって下さることなんだから、私が丈夫であることは、難儀な氏子が助けられるということの行使することの、健康なのだから、神様がおかげ下さらんはずはないという確信がいよいよ募ってくる訳なんです。お役に立ちたいばっかりに、「どうぞ体の丈夫を下さい」と願うのだから、おかげ下さらんはずがない。そこんところを的確にです。そのおかげに向かって信心を押してもらうということ。
 そしておかげというものは、確かに私がべっ甲の眼鏡が欲しいと言えば、ちゃんと私の欲しい眼鏡が、ちゃんと度の合うた眼鏡が、ここのご信者さんの家にちゃんとあるということがあるのです。「いいえ私が八十人参るよ」と言うと、「いや自動車がありません」と言う。そこで「私の方のバスを使うて下さい」という者がそこにあるじゃないか。そういうおかげを頂いてこそ、初めて確信に満ちた生活が出来る。そういう生活が出来て行きよらなければです。
 いよいよの時、ままよというのは、それは糞度胸です。そういう確信を感じるから、いよいよの時に、ままよと言うどん腹も決まるです。そしてそれは死んでもままよのこと。死んでもやはりおかげを受けられるという確信が、持たれておるから、そこをそういう、言うならば、ままよと言う心で通り抜けることが出来る。そういう信心に十分の徳が受けられるとおっしゃるのですから、ここではもう日々皆さんに伝えさせて頂いておることはもう全部極楽行きの話ばかり、それを極楽行きを行使せずに、ただおかげ頂くことだけに行使するとしたら、これは大変な、相済まない、言うなら、神様の思いと私共の願いが互い違いになっておる元になってくるということが、判りますですね。
どうぞ。